フィリピンの近代史(1)~独立革命の第一幕・カビテ州

フィリピン日本人商工会議所
副会頭・専務理事 藤井 伸夫

{はじめに}

企業の駐在員として初めてフィリピンの土を踏んだのは2000年10月で、既に20年が経過しました。 企業の所在地は、カビテ州のロサリオ町とジェネラル・トリアス市に跨って展開するカビテ・エコノミック・ゾーンにあり、“フィリピンの近代史の原点”とも言われる土地でした。
生来の好奇心に加えての本好き・歴史好きから、関連する書籍を読み漁ると共に交友関係で知り得た話などを元に、数回に亙ってフィリピンの近代史を本誌に寄稿してから10年以上が経ちました。 今回、見直しの上投稿する機会を得ましたので、ご笑読(納?)頂ければ幸いです。
始めるにあたっては、その前史と言うべき皆さんが良く知っておられる“ヨーロッパとの遭遇”=文明の衝突、つまりはマゼランの話から始めることとしたいと思います。 参考にしたのはフィリピン人が高校で習う歴史の教科書で、皆さんの部下のフィリピン人で真面目に勉強した人は大抵の人が知っている内容になっています。

尚、全編を通して“それはちゃうで”とか“こんな話もあるで”などの指摘がありましたら、是非メールなどでお知らせ下さい。

では、第一回です!

{マゼランの足跡}

フィリピンの植民地としての歴史は、後述する初代総督のレガスピが1565年にセブを植民地にした事に始まるが、その前史にあの「世界一周」で有名なマゼランが居る。 大航海時代に生まれたポルトガル人探検家のマゼランは、自国のマヌエル国王に航海資金を求めたが否定され、フェルディナンド国王・イサベラ女王による共同統治下にあった隣国スペインに赴いて航海プロジェクトを説明し、5隻の船と265人の船乗りを与えられて1517年9月20日にスペインを出発した。

大西洋・太平洋を航海して今のフィリピンに到着し、サマール島南方のレイテ湾沖合にあるホモンホン島に上陸したのが1521年3月17日だった。 その後、現地の部族長達と交流し“マサオ”でフィリピン初のミサを3月28日に行なったとの記録がある。 初ミサの場所については、「北アグサン州ブトゥアンのマサオ」説と「南レイテ州リマサワ島の誤記(リマサワ→マサオ)」説があり確定していない。 そして、3月31日には“マサオ”の海の見える丘の上に木製の十字架を立てたが、これは同地をスペインの植民地とした事の象徴で、マゼランはフィリピン諸島の事を「サン・ラザロ列島」と記している。

*“フィリピン”という国名は、フェルディナンド国王の皇太子であったフェリペから取ったもの。
*マゼランがフィリピンを目指した理由は、従兄弟のセラノがミンダナオの海岸部の話を書いた手紙を送った事と、義兄弟のバルボサがスルー諸島の旅の様子を記した本を書いていた事による。
*ちなみに読者の名前が「MASAO」なら、フィリピンで最初のミサが行なわれた場所になるので話題として持ち出すのに好都合! また、ブトゥアン市の空港名は“マゼラン空港”となっている。

その後4月7日セブに到着したマゼランは、セブの部族長フマボンと盟友になり、部族長自身・妻・子を含む800人が洗礼を受けて改宗したとのことで、これらがフィリピンで最初のキリスト教徒とされている。 部族長の妻には、可愛いイエス・キリストの子供像(サント・ニーニョ)が贈られ、現在でもセブ市の守り神として伝えられている。 更に周辺の部族長が続々と改宗してスペインに従属を誓う中で、マクタン島のラプラプだけが距離を置いていた。 マクタン島のもう一人の部族長でラプラプとは仇敵同士であったズーラは、マゼランに対してラプラプを打ち破るよう頼み込み、それを受け入れたマゼランは1521年4月27日にマクタン島へ60人を引き連れて進攻した。 戦いは激しいものだったが、地の利・人の利を得たラプラプ軍の勝利に終わり、腕・足・顔に傷を負ったマゼランは取り囲まれて殺されてしまった。 この戦いで、フィリピンの自由を守ったラプラプは、“フィリピン人初の英雄”として歴史に名を刻み、マクタン島にラプラプ市との名を残している。

マクタン島での敗戦に面目を失ったスペイン人に対して、セブの人々は以後敬意を示さず5月1日にフマボン部族長に招待されて出向いたところ、酒食の果てに襲撃され新しくマゼランに代わった司令官も殺害されてしまった。 残ったスペイン人は船に逃げ込んで南へ向かい、トリニダッド号はメキシコへ向かおうとしたが、現在のインドネシアのセレベス島とニューギニア島の中間にあるモルッカ諸島でポルトガル艦隊に捕まり、ビクトリア号はインド洋・ケープタウンを経由して1522年9月6日にスペインのサン・ルカールに辿り着いたが、世界一周を果たしたのはこの一隻だけで、航海の当初から参加していた者で帰り着いたのは18人だけだった。

*子供だった頃、「マゼランと言えば、世界一周!」と言うのが頭にこびりついていたが、フィリピンで死んでおり一周したのは部下だけだった。
*ラプラプの名前は、フィリピン産のハタ科の最高級魚の名前にも残っている。

{レガスピ総督の登場}

マゼランを送り出した後、西周り航路には1525年から1564年迄に5回の艦隊送り出しがあったが、成功したのは最後の1564年のレガスピ艦隊だけだった。 当時のスペイン国王フィリップⅡ世は、自分の名前がついた列島をスペインの植民地にする事を望んでおり、既に植民地としていた新世界のメキシコとを短時間で容易に結ぶ航路を必要としていた事が背景にあった。

その任に当たったのはミゲル・ロペス・デ・レガスピで、4隻の船と大半がメキシコ人である380人を与えられて 1564年11月21日にメキシコのナビダッドを出港した。 マリアナ諸島を経由してフィリピンに到達したのは 1565年2月3日で、サマール島・レイテ島・ボホール島などを探査した。 ボホール島では部族長のシカトゥナとガラと“血の盟約”を結んだが、このイベントは後世の人間国宝である画家のホアン・ルナが絵にしている。 また、日本の大使などが離任時に拝受する“シカトゥナ勲章”にその名を残している。

その後、レガスピはボホール島からセブ島に渡り、部族長フマボンの息子トゥパスと戦ってこれを打ち破り山中に追いやったが、懐柔策に転換してトゥパスとその家族は洗礼を受けてキリスト教徒となった。 このようにして、1565年レガスピはセブをスペイン最初の植民地とする事に成功し、砦と教会を建て“シティ・オブ・ザ・モースト・ホーリー・ネイム・オブ・ジーザス”と名づけた。

更に、1569年にはパナイ島・マスバテ島、1570年にはミンドロ島を制圧しマニラへと肉迫した。 当時のマニラは豊かなムスリム王国で、1570年と 1571年の戦いでマニラを制圧した。
マニラのムスリムの長は ラハ(偉大なという意の尊称)・スレイマンで、スペイン人の侵入に抵抗した。
1570年のマニラ侵攻は、マルティン・ド・ゴイティンに率いられた部隊で120人のスペイン人と600人のビサヤ人戦士から成るものだった。 激しい戦いの末にスレイマンの部隊を打ち破り、パンパンガ人の鍛冶であるピラの作った大砲も捕獲されてしまった。 しかし、ゴイティンは戦列を立て直すべく、根拠地のパナイ島に戻った。
1571年になって、今度はレガスピ本人が乗り出してきてスレイマンと戦うことになった。 この時、トンドを拠点にしていた年老いた叔父のラカン・ドゥラがスレイマンを「これ以上死人を出してもつまらない」と説得して、両者はスペイン人の支配を受け入れる事を決めたが、近隣のバランガイを支配していたハゴノイやマカべべなどは簡単に諦めるのを拒んだ。
そこで、ナボタスで両者は会談し、マカべべの部下の戦士であったバンボリトに率いられた部隊でスペイン人に戦いを挑む事になった。
1571年6月3日、トンドの海岸近くのバンクサイ海峡で戦端が開かれたが、これがマニラ湾で行なわれた史上初の海戦だった。 戦いは激しいものだったが、スレイマンとラカン・ドゥラの支援が無かった事・スペイン人が武器と規律に優っていた事・600人のビサヤ人戦士が支援した事などの理由でスペイン人の勝利に終わり、500人が捕らえられてマニラはスペイン人の手に墜ちてしまった。

1571年6月24日、レガスピはマニラを植民地の首都と宣言し、マニラはムスリム王国の町からスペインの都市に作り変えられ、スペイン風の教会・家・砦が建てられスペイン国王フィリップⅡ世は、“ディスティングィシュト・アンド・エバー・ロイヤル・シティ”と命名した。

*マニラの由来は、“ニラッド(植物の名)の生えるところ”の意で「美しい」という意味の「マ」がついたもの。 水道配給会社のマニラッド社は、旧名を正しく伝えている。
*その後、抵抗したカインタやタイタイでの戦いでのスペイン人の圧倒的な軍備と虐殺など聞いたルソン・ビサヤ地域はスペインの支配下に入り、16世紀末までにはミンダナオ・スルー諸島・山間部を除いてフィリピンの大半がスペインの植民地となった。

{フィリピンの統治}

フィリピンの統治は、「スペイン国王―メキシコ―比総督」というスタイルが定着したことから始まる。 対象としていたのは、グアム・マリアナ・カロリン・パラオなどの諸島を含む広大なもので、ミンダナオは海岸周辺地域だけが統治されていて、ムスリム地域は統治されないままだった。

海上交易の拠点として利用するところに価値を見出していた為で、メキシコで産出した銀をガレオン船で運び込み、中国の絹織物・陶磁器やモルッカ諸島の香料などと交換して本国へ持ち帰るという貿易が中心であった。 ガレオン船によるマニラーアカプルコ間の太平洋往復定期航路は19世紀まで主要な物資流通のルートとして250年間も続き、往路200日・復路70日で太平洋を航行していた。

この航路維持のためには船の建造・修理が不可欠で、マニラ湾口に位置するカビテは最大の基地で、他にはミンドロ・マスバテなども有名であった。 その為、後背地の森林伐採が続き結果としてはげ山が残ったと伝えられていて、現在も海岸沿いのカビテ州ロサリオからラグナ州に向かう際には、「なるほど」と思わせる光景が見られる。 ちなみに、日本との定期航路は、1891年の日本郵船によるマニラ-横浜間が嚆矢とされている。

{革命の息吹と胎動}

その後歴史の脚光を浴びるのは、ラグナ州ビニャンをベースにしていた強大なドミニコ修道会に支配されていたシラン(観光地タガイタイへ向かう途中に通過する)などで、教会の収奪に対抗する事件が起こり始めた時で、特に1822年から1828年まで続いた「山賊同盟」(48人の山賊が結集)と住民が手を結んだ抵抗事件が有名である。

また下級兵士による反乱も19世紀後半には発生するようになり、1872年1月20日の給料日に起こったカビテ傭兵隊(サン・フェリペ砦の守備隊)で兵士200人が「給与カット・税免除特権の剥奪(18世紀半ばから存続)」に抵抗して挙兵した事件が有名で、一説には「極東で初めての労働争議」と言われている。

結果は首謀者が不幸にも火薬の暴発で盲目となり、捕らえられて反乱罪で処刑されたが、植民地政府は「反乱=スペインからの独立運動」と見なし、精神的指導者としてバコール在住の神父を含む3人の神父を告発して処刑し、時のマニラ駐在の枢機卿は「鐘を鳴らして埋葬」という神父の埋葬も禁じてパコ(安い家具屋さんが集中!)の一般墓地に埋めてしまい、現在も所在が不明のままとなっている。 この史実について「国民の英雄」ホセ・リサルは「他の争乱の原点。自らの運命を切り拓こうとする者を同様の自己犠牲に駆り立てた。」と賞賛している。

この3人の神父(マリアーノ・ゴメス、ホセ・ブルゴス、ジャキント・サモラの省略形―GOM-BUR-ZAと通称)の処刑事件は、「歴史の転回点」として認識されており、ガルシアノ・ロペス・ハエナ、マルセロ・デル・ピラル、ホセ・リサルなどの“改革主義者”を生み出していくキッカケとなった。

ガルシアノ・ロペス・ハエナは、1889年2月15日に本国のバルセロナでフィリピン事情についての初の新聞である「ラ・ソリダリラッド」を編集発行したが、当然にも発行禁止となったがコピーが出回ったし、マルセロ・デル・ピラルは教区司祭の横暴と収奪について攻め続けた。 次いでホセ・リサルと話は続くがラグナ州カランバ生まれで「国民の英雄」として多くの歴史書に登場するので詳細は割愛させてもらいます。

さて、彼ら“改革主義者”は、1889年1月12日マドリッドで「ヒスパーノ・フィリピーノ協会」を設立して運動の統合を図り、各種の改革を訴えることとなるが纏められた9項目の要求の中には、「サント・トーマス大学の本国大学並みの格上げ」や現在われわれが政府に要請しているような「道路・鉄道の整備」などが挙げられている。

{カティプナンの登場}

もう一つの独立革命の背景にフリーメーソンの存在がある。 ガルシアーノ・ロペス・ハエナはフリーメーソンの一員であり、1889年4月にバルセロナで「革命ロッジ」を設立し、フィリピンでもその指導下にロッジを設立して、その後1893年5月には全国で35のロッジ(内マニラに9)が結成される事となった。 ホセ・リサルも1892年7月に運動の中心になる組織「フィリピン協会」をトンドで設立したが、微温的な団体であったにもかかわらず植民地政府が過剰に反応し、捕えられて流刑となった。 その後、もう一人の英雄である「フィリピン革命の父」アンドレア・ボニファシオとの会合を経て、その組織は「カティプナン」となり、政治の表舞台に出て行く事になる。

この「カティプナン」は、その成立の背景からフリーメーソンの影響を大きく受けており、1896年8月の組織発覚直前の状況は、長がボニファシオで会員数は100人を超えていて、黒フード(パスワードは“カティプナン”)、緑フード(3人の処刑された神父の名をとって“GOM-BUR-ZA”)、赤マスク(“リサル”)の3階層に分かれていた。

同志としての合図のサインは、「右手の掌を左胸に当てて握り、人差し指と親指を同時に挙げる」というもので、現在の国歌斉唱の際のスタイルに通じるものがある。 発行していた新聞名は「カラヤアン」(自由)で、マカティー中心部からC5に抜ける道路に名前が残っている。 この活動で女性の果たした役割は大きく(現在の企業活動でも一緒!)、女性部会の代表者は正がホセ・リサル夫人、副がボニファシオ夫人だった。

組織はその後拡大の一途をたどり、ブラカン・バタンガス・カビテ・ヌエバエシハ・パンパンガ・ラグナの各州にも支部が結成され、メンバーは3万人にまで拡大した。

ボニファシオは、リサルの「改革主義」とは異なり対スペイン武装蜂起は不可避と認識していた革命家で、資金不足による武器調達の困難さを自覚していて、当時マニラ湾に停泊していた日本海軍の戦艦「金剛」に乗り込んで蟹村提督に支援の直談判に及んだが支援を得られなかったという一幕もあった。(このとき日本海軍が動いていたらという“IF”も想像の楽しみ!)

組織の内部が「改革主義」と「革命主義」、「富裕層」と「下層出身者」の確執で揺れ動く中、1896年8月の「バリンタワックの叫び」(北ルソン高速道路の入口)・「マリキナでの蜂起呼びかけ」・「ブラカン州サン-ホアン-デル-モンテの戦い」「パッシグ・パテロスの戦い」など小規模の戦闘があったが、いずれも優勢なスペイン総督の反撃で鎮圧された。

この時、戦争状態と宣言された地域が8つ(マニラ、カビテ、ラグナ、バタンガス、ブラカン、パンパンガ、ターラック、ヌエバエシハ)あり、それがフィリピン国旗の8本の光芒に残っている。

{アギナルド将軍の登場・テヘロス会議}

さてカビテ州に話は戻るが、このカティプナンの活動が活発で「マグダロ」(青年将校に率いられたオークウッド占拠事件のグループ名、カビテ州の地方党の名に残る)と「マグディワン」の2大グループに分かれており、カビテ・エコノミック・ゾーンの近隣の町カーウィットとノベレッタをそれぞれ拠点としていた。
1896年8月にはそれぞれがスペイン軍との戦いを開始し優勢を確保していたが、1896年12月の新総督着任からスペイン軍が態勢を立て直し、カビテ州の大半を革命軍が押さえていた状況から三分の一を奪還するまでに至っていた。
2つのグループは、その指揮官の名で呼べば「アギナルド派(エミリオ・アギナルド)」(カビテ州第一地区は一族の聖域で現下院議員も一族)と「アルバレス派(マリアーノ・アルバレス、GMA(ジェネラル・マリアーノ・アルバレス)としてカビテ州の地名に残る)」(元DENR長官も一族)でグループ間の対立もあった事から、中央からボニファシオが仲裁に入り、ザポテ(コスタル・ロードの終点近く)でアギナルドと会談し、その後12月31日には両派の会合がイムス(アギナルド・ハイウェイ沿い、矢崎トーレスなどの所在地)で開かれた。

会合ではカティプナンの在り方を巡って論争になり、アギナルド派は「秘密組織からの脱皮―政府形態への移行」を主張したのに対し、アルバレス派は「前衛組織にとどまるべき」として対立は解けず物別れに終った。

*03年に発生した「オークウッド・ホテル(現アスコット・ホテル)占拠事件」を率いたのがトリリアネス前上院議員らの青年将校で、指導部にはドゥテルテ大統領に重用されてBOC 長官・BUCOR長官を歴任したファエルドンもいた。 グロリエッタの中心に建つオークウッドを占拠し、軍靴など装備品と給料の遅配などに抗議した“蜂起”事件で、一発の銃声も聞かずに終結した。 その後、トリリアネスは獄中から立候補して上院議員を2期務め、終盤にはドゥテルテ大統領の批判派として活動した。

その後、ボニファシオの懸命な仲介で1897年3月22日テヘロス(カビテ・エコノミック・ゾーン正門前集落)のサンフランシスコ・デ・マラボン教会で再度会合を開き、ボニファシオが仲裁案を提示して、「新政府樹立」の方向で纏まり「フィリピン共和国」の成立が宣言されて政府のポストが選ばれた。 大統領はエミリオ・アギナルド、副大統領はマリアノ・トリアス(これもジェネラル・トリアスとしてカビテ州の町名に残る)、キャプテン・ジェネラルにアルテミオ・リカルテ、戦争担当にエミリアノ・デ・ディオス、内務担当にボニファシオが選出された。

ここまでうまく運んだに見えた会合だったが、ボニファシオの任命についてアギナルド派から「内務担当には弁護士資格が必要。我々にはホセ・デル・ロサリオ(これもカビテ・エコノミック・ゾーン所在地の町名)がいる!」と異議が出されたのに対し、ボニファシオがカティプナン全国最高委員会の代表者としてここに出席していると怒り、銃まで抜く始末となり「全部無効!」と宣言して退去してしまった。

翌23日にボニファシオは、マニラから連れてきた45人の部下と再びテヘロスで会合を持ったが、全員が昨日の会議結果に不満とした事から、やや南方のナイクに移動してしまった。アギナルドは戦列に戻るように説得したが、ボニファシオの怒りはおさまらずに不調に終った。

{アギナルド大統領とボニファシオの逮捕処刑}

ボニファシオは、ナイクでカティプナン最高責任者の名においてテヘロスで成立した政府とは別の政府案を作成し、マニラのピオ・デル・ピラル(通りの名が沢山ある!)の下に統合軍を組織する事を主旨とする文書に署名した。 この動きで決意の程を知ったアギナルドは、「分裂は利敵行為」としてアガピト・ボンソン大佐指揮下の部隊にボニファシオ一行の逮捕を命じ、ナイクからインダンに移っていた一行は逮捕されナイクに移送された。

4月29日からナイク近くのマラゴンドンで軍法会議が開かれて有罪とされたが、死刑―流刑―死刑とアギナルドの判断は揺れ動き、結局は5月10日タラ山中でマカパガル中佐の指揮する部隊によりボニファシオは処刑されてしまった。
処刑部隊が首都と宣言されたマラゴンドンに戻ると、戦闘に疲れて帰国したスペイン総督に代わって前任者の総督が新たに総督となったスペイン軍が優勢で、カビテ州の大半を押さえられた状態となっていて、アギナルド大統領以下は既にバタンガス州タリサイに引いていた。
その後、フィリピン側はリサル州モロン、パッシグ、ブラカン州サン・ホアン・デルモンテなどを転々とした結果、ブラカン州ビヤック・ナ・バトに司令本部を設置して態勢の立て直しを図った。

*このボニファシオの署名文書と、カティプナンで中央を指揮していた事から、ボニファシオを初代大統領とする異説がある。

{ビヤック・ナ・バト共和制}

総督は和平を望んだがかなわず1897年7月2日「人民移動禁止令」を出したが、アギナルド大統領は対抗して11月1日キューバ憲法を模した「フィリピン共和国憲法」に署名して法的整備を進めた。 内容には「タガログを公用語」・「宗教・教育・表現の自由」などの文言があった。

その後、膠着した戦況の中でペドロ・パテルノが仲介に出て植民地政府と共和国政府の停戦交渉が持たれ、1897年11月8日和平合意、12月15日停戦文書調印と進み、停戦条件に従って、アギナルド大統領は総督の甥と共に香港に出国し、2人のスペイン人将軍がビヤック・ナ・バトに人質として入り、また犠牲者の慰謝料などの支払いも行なわれて独立革命の第一幕は終った。

第二幕ではアメリカの参戦で混迷を深め、カビテ沖での米西艦隊決戦、マッカーサー元帥の父君の将軍の登場、アギナルド大統領の香港からの帰還、などと続くがカビテ州が脚光を浴びるのは、1898年6月12日のカーウィットのアギナルド邸2階バルコニーで行なわれた「独立宣言」で、建物は今も「アギナルド・シュライン」として生徒・児童の校外学習のメッカとなっていて、独立記念日には正副大統領・上院議長のいずれかが出席して「国旗掲揚式」が開催されている。

ちなみにここまで登場した有名人はすべてコイン・紙幣の肖像になっていて、「1ペソコイン」はホセ・リサル、「5ペソコイン・5ペソ紙幣」はアギナルド、「10ペソコイン・紙幣」はボニファシオと後に登場する「革命の良心」と呼ばれたマビニとなっている。20ペソ以上はもっと現代近くの人物!

(参考文献)
HISTORY OF THE FILIPINO PEOPLE TEODORO A. AGONCILLO
HOME OF INDEPENDENCE EMILIO AGUINALDO HOUSE

フィリピンの近代史

フィリピンの近代史(1)~独立革命の第一幕・カビテ州
フィリピンの近代史(2)フィリピン独立革命の第二幕~第一共和国の興亡
フィリピンの近代史(3)~アメリカの植民地政策